JICA関西センター物語(9) -さらなるパートナーシップ発展のために- 「土地の問題を乗り越えて」

2023年7月10日

前号(JICA関西センター物語(8))では、兵庫インターナショナルセンター(JICA関西センターの前身)が神戸市須磨区一ノ谷から現在のHAT神戸(注1)に移転するにあたり、その「土地」に問題があったことをお伝えしました。今回はその問題の内容とそれをどのように克服したのかについてお伝えします。

景観に配慮した外観

JICA関西センターは、西隣の「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」(西館と東館)、そして東隣の「国際健康開発センタービル(注2)」に挟まれています。
写真をご覧ください。個性のある姿の建築物がこの地に美しい景観を作り上げています。

(写真:右から国際健康開発センタービル(1998年4月)、JICA関西センター(2001年9月)、阪神・淡路大震災記念人と防災未来センター東館(2003年4月)、同西館(2002年4月)。カッコ内は竣工年月)。)

(注1)JICA関西センターがある地区の名称。神戸市の東部新都心として開発された。「Happy Active Town」の略。また用地全体が国道2号線を挟んだ北側が約30ha、南側が約90haで帽子(HAT)の形状であることも由来の一つと言われている。
(注2)国際健康開発センタービルは建築家の丹下健三氏の研究所による設計。

これら4つの建物の高さはほぼ同じです。これは偶然ではありません。神戸市が発行した「東部新都心区土地区画整備事業完了記念誌(2005年4月発行)」には、その街づくりの「基本理念」として次のように記載されています。
「水際空間の活用もあわせ、豊かな基盤施設を整備し、建築物との融合とあいまって魅力ある街並みを形成するとともに(後略)。」

またその「整備の基本計画」には次のような記載があります。
「都市の貴重な水際空間という立地を生かして、人々が集い、楽しみ、生活することができる、潤いのある魅力的な交流空間を形成します。」

これらの方針のもと、学識経験者を中心に作られた東部新都心計画調整委員会の中に「まちなみ形成計画部会」が設けられました。景観について、JICAはこの組織にも事前に相談する必要がありました。

土地の「堅固さ」の問題

兵庫県から提示を受けた場所には神戸製鋼所(注3)の脇浜工場(製鋼工場)がありました。当時は工場が阪神・淡路大震災で被害を受け、遊休地となっていました。この地域は1927年頃の埋立地ですが、巨大な製鉄所を支えた堅固な土地だったようです。地盤沈下も見受けられず、同震災の時にも液状化現象が起こりませんでした。しかし土地の「堅固さ」故の問題がありました。以下、「国際協力事業団 兵庫インターナショナルセンターセンターのあり方調査報告書(平成8年11月)」からの引用です。
「隣地の国際健康開発センタービルの地質調査を参考にすると、表土から6~10メートルにレンガ片、コンクリートガラ(注4)混じりの砂れき層で、以下の深層部が砂質シルトになっている」。

土地が「堅固」であったため、地下部分の開発利用は困難でした。国際健康開発センタービルとJICA関西に地下室や地下駐車場がないのはこのような事情からです(注5)。

(注3)日本も戦後、世界銀行から31のプロジェクトで貸出を受けている。その一つが神戸製鋼所(灘浜工場と脇浜工場)。
(注4)建築や解体工事の際に排出されるコンクリートのがれき。
(注5)機械室や駐車場は地下にあることが多いが、当センターの機械室は3階に設置している。同様の理由で国際健康開発センタービルもこれらの施設は1階にある。なお同ビルで作られる熱源(冷水・温水)はこの地域一体に供給されており、当センターもここから熱供給を受けている。

土地の「広さ」の問題

当時兵庫県国際局国際交流課長としてJICAの移転に関わっていただいた西田裕氏によれば、JICAは当初、移転前の兵庫インターナショナルセンター(神戸市須磨区一ノ谷)の設置・運用の分担と同じように、「兵庫県が購入した土地を、無償で借用する方法」にこだわっていたとのことです。しかし当時の法律(地方財政再建促進特別措置法)でそのような便宜を兵庫県がJICAに与えることはできませんでした。そのためJICAは兵庫県から提示を受けた敷地3,750㎡を所有者の神戸製鋼所から購入することになります。しかし周辺の建物とのバランス、さらに建ぺい率や(前述の理由で地下に設置できない)駐車場の附置義務などを考えるとどうしても5,800㎡は確保したいと考えていました。残りの約2,000㎡をどうするか。

当センターの食堂(注6)のテラスから海側(南側)を臨むと、緑の芝生やクスノキ、コブシなどの木々が臨めます。芝生や木々は、さらに先の「なぎさ公園(注7)」手前の道路までの奥行約30メートル、幅約70メートルの約2,000㎡まで広がります。この土地は、兵庫県が所有する「国際交流広場」です。兵庫県が作成した「国際交流広場の概要」には、次のように記載されています。
「神戸東部新都心中心地区は、(中略)我が国でも有数の国際機関・施設が集積する地区であり、国際交流広場を、ここに集まる外国人・日本人が集い・憩い、野外イベントにも対応できる広場として整備を行う」。

(注6)一般の方も利用可。ランチは11:30~14:00、夕食は17:30~21:00(ラストオーダーは各30分前)。年中無休(ただし年末年始を除く)。コロナの状況を踏まえて営業時間が変更になる可能性があるため、最新の情報はJICA関西ウェブサイトで要確認。
(注7)建築家の安藤忠雄氏の建築研究所に設計による。国際健康開発センタービルの東側に建つ兵庫県立美術館も同研究所による設計。

JICAは兵庫県の協力により、この土地を同県と一体的に整備・開発することが可能となりました。それにより建ぺい率や駐車場附置義務等の規則を遵守することはもちろん、外観も考慮したセンターを建設することができたのです。

これからも地域と共に

新しく建設されたセンターは、名称を「JICA兵庫国際センター」として、2002年4月に正式に開設されました(注8)。パールグレーを基調とした配色。海辺の風景にマッチした帆船を思わせる外観(注9)、そして施設も充実しました。研修員(注10)の宿泊施設としての収容人数はこれまで78名でしたが100名まで可能となり、宿泊部屋も移転前よりも広くなりました(移転前の宿泊部屋については、研修員より苦情を受けることもありました)。また研修室なども充実し、それまでなかった研修員のための福利厚生施設として、体育館(兼講堂)や和室等も設けられました。さらに一般の人たちが国際協力を学べるスペースとして、広報展示室や資料室も設置しています(注11)。開設以降20年以上に亘り、数多く訪れる途上国からの研修員はもちろん、地域の人たちにも愛されてきました。

(注8)正式な開設は2002年4月であったが、前年(2001年)9月には総務課のみ移転を終了、さらに同年12月には旧センターから完全に移転した。年が明けて2002年1月に始まった研修プログラムからは、すべて新しいセンターで実施している。
(注9)いくつかあった案の中で、株式会社 日建設計のデザインが選ばれた。施工は大林・淺沼・松尾建設工事共同企業体他。設計業者の選定やデザイン決定に西田裕氏の他、兵庫県側からも参画した。
(注10)開発途上国からJICAの研修事業に参加する方を指す。研修期間は数週間から日本の大学院での学位取得を目指す最長3年まで多様。参加者の大宗は各国政府の行政官で、研修事業を通じて知見・技術を共有し、自国の発展のために生かす上で核となる人材である。中には、研修参加後、数年で自国政府の局長、次官、中には閣僚にまでなった実績もある。他にも開発途上国のビジネスや学術界の中堅リーダーなどが参加している。
(注11)広報展示室と資料室に加えて1階ロビー、食堂を合わせて「JICA関西プラザ」と称し、一般にも公開している。(9:30~18:00。年中無休(年末年始を除く)。食堂の営業時間は脚注5参照。)

土地の取得に関する様々な考え方や、法律の制限がある中でも、JICAはセンターを建設することができました。ここにも兵庫県による大きな貢献がありました。そして今もそのおかげでJICAはこの地で国際協力事業を展開できていることを、我々は忘れてはいけないと思います。

(写真:JICA兵庫国際センター完成直後の様子。)

JICA関西 地域連携アドバイザー
徳橋和彦